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「日枝久って誰?最近よく名前を聞くけど、どんな人なの?」
そんな風に気になったあなたに向けて、今回はフジテレビの元会長・日枝久さんのプロフィールを一気にご紹介しちゃいます!
彼は早稲田大学卒という高学歴を持ちながら、入社からずっとフジテレビひと筋。
労働組合から始まり、編成局長、そして社長・会長へと出世街道を突っ走った“フジテレビの顔”ともいえる存在なんです。
一方で、「鹿内家追放」や「フジテレビ乗っ取り」とも言われるドロドロの社内権力闘争や、近年の“辞任要求”など…
実は知られざる裏側もいっぱいあるんですよね。
この記事ではこんなことがわかります👇
・日枝久さんの基本プロフィールと学歴
・華やかすぎる経歴とフジテレビでの実績
・“クーデター”と呼ばれた乗っ取り事件の真相
・女子アナブームの仕掛け人としての一面
・なぜ2025年に辞任を迫られたのか?
これを読めば、テレビの裏側がちょっと見えてくるかも?
それではさっそく、日枝久さんの素顔に迫っていきましょう!
日枝久 プロフィールを一挙公開!基本情報まとめ
フジテレビを“テレビの王者”へと押し上げた立役者、日枝久さん。ここではそんな彼のプロフィールを分かりやすくまとめていきますね。出身地や学歴、これまでの肩書きなど、基本的な情報をまずはおさらいしていきましょう。
次では、生年月日や出身地といった詳細プロフィールをしっかり紹介していきます!
生年月日・出身地・血液型などプロフィール詳細
結論から言うと、日枝久さんは1937年12月31日生まれで、東京出身です。
現在87歳(2025年時点)と、今もなお業界に影響力を持ち続けるレジェンド級の存在です。
その理由は、長年にわたるフジテレビでの功績にあります。
報道部からキャリアをスタートし、視聴率三冠王を獲得した時代をけん引した実績が評価され、現在は名誉職に多数就任。肩書きの数も桁違いです。
具体的には、フジサンケイグループ代表や、日本美術協会会長、彫刻の森美術館館長などを兼任し、文化芸術の世界にも貢献しています。
また、日英台の3カ国から勲章を受けており、その功績は世界的にも認められているんです。
こんなにも多方面で評価されている人って、なかなかいませんよね。
次は、彼がどんな賞を受けてきたのか、そして今どんな肩書きについているのかを見ていきましょう!
受賞歴・肩書・現在の役職まとめ
日枝久さんのすごいところは、テレビ業界に限らず文化・芸術の分野でも多くの表彰を受けている点なんです。
まず、受賞歴をざっくりまとめるとこんな感じです👇
- 2010年:高麗大学校 名誉経営学博士
- 2010年:早稲田大学 名誉博士
- 2013年:旭日大綬章(日本)
- 2014年:大英帝国勲章ナイト・コマンダー章(イギリス)
- 2023年:紫色大綬景星勲章(台湾)
こうして見ると、日英台の3カ国から勲章をもらっているのが驚きですよね。
肩書きも本当に多くて、2025年時点では以下のような役職に就いています👇
- フジ・メディア・ホールディングス取締役相談役(※2025年3月に退任発表)
- フジテレビジョン取締役相談役(※同上)
- 彫刻の森美術館・美ヶ原高原美術館 館長
- 日本美術協会 会長
- 東京文化会館 館長
- 他、地方局・新聞社など多数の取締役相談役
これだけのポジションを長年任されていたって、本当にすごいことですよね。
ただ、その影響力が強すぎるあまり、2025年には米ファンドから「辞任を求める書簡」が届いたという報道も出ています。
学歴・フジテレビ“乗っ取り”の全貌とその後
日枝久さんのキャリアで特に注目されるのが、彼の学歴と“フジテレビ乗っ取り”とも呼ばれた出来事。
この見出しでは、まず学生時代のエピソードを紹介したあと、フジテレビ内での権力闘争とその後の影響までをまとめてお届けします!
最初に、彼の学歴と学生時代の意外な素顔について紹介していきますね!
学歴|早稲田大学卒!意外な学生時代の一面とは?
日枝久さんの学歴は、ズバリ「早稲田大学 教育学部社会科卒」です。
高校は東京都立杉並高校に通っており、幼少期からずっと東京育ちなんです。
実は学生時代、ボーイスカウトに熱心に取り組んでいたそうで、小学校から大学まで続け、大学生では隊長も務めていたんだとか。
この頃から責任感があって、リーダー気質だったのかもしれませんね。
そして大学在学中、将来は教員になるつもりで教職課程を取っていました。
でも、教育実習で職員室の空気になじめなかったことがきっかけで、教員志望をやめたそうです。
その後、偶然フジテレビの実習生募集に声をかけられて応募。
ここから彼の人生は一気にメディアの道へと進んでいくんですね。
鹿内家との対立と「乗っ取り」と言われたクーデター劇
結論から言うと、日枝久さんは1980年代から90年代にかけて、フジテレビ創業者一族である鹿内家を完全に排除し、自身がグループのトップに上り詰めました。
この流れが“フジテレビ乗っ取り”と言われるゆえんなんです。
もともと日枝さんは、1980年に42歳の若さで編成局長に抜擢されたんですが、これは当時の鹿内春雄(創業者・信隆の次男)の肝いりだったんです。
しかし1988年、春雄さんが急逝。直後に日枝さんは社長に昇進します。
そして1992年、鹿内家が推していた**三代目・鹿内宏明(娘婿)**を役員会で排除。
ここで日枝さんはフジサンケイグループの実権を完全に掌握しました。
この出来事、マスコミでも「クーデター」「政変」と表現されるほどの衝撃でした。
特に日枝さんが労働組合書記長時代に築いた人脈や社内政治力を巧みに使ったと言われていて、ただの出世劇じゃなかったのがスゴいところ。
彼はその後、会社の組織体制を大きく改革し、1997年にはフジテレビを東証一部に上場。
経営面でもフジテレビを巨大メディア企業に育て上げました。
栄光と失脚…相談役退任までの流れと影響力の行方
日枝久さんは、フジテレビを黄金時代に導いた立役者として長年にわたって影響力を持ち続けてきました。
でも、その“絶大すぎる力”が徐々に問題視され始めたんです。
実は2025年、アメリカの投資ファンド「ダルトン・インベストメンツ」が、フジ・メディアHDの株主として**“日枝久の辞任を要求”する書簡**を送りつけたんですよ。
背景には、中居正広さん関連の不祥事などで取締役陣が一斉辞任する騒動があり、日枝さんにも責任の一端があるという見方が広まりました。
それを受けて2025年3月、ついに日枝さんは取締役相談役を退任することに。
しかも、彼が最後まで記者会見に姿を見せなかったことに「説明責任を果たすべきだった」との声も出ています。
ただ、影響力がゼロになったわけではなく、一時は「経営諮問委員」という役割でも関与を続けていました。
ですが最終的には、体調不良もあってその委員も辞任。
まさに“栄光と影”の両面を見せたキャリアの終幕でした。
日枝久の経歴まとめ|若い頃からフジ一筋!
日枝久さんのキャリアは、まさにフジテレビとともに歩んできた歴史そのもの。
この見出しでは、入社から社長・会長に至るまでの歩みを年表的に紹介しつつ、彼の“中の人”としての活躍ぶりをまとめます!
まずは、彼のキャリアスタートから編成局長時代までを振り返ってみましょう!
入社から編成局長時代の活躍
日枝さんは、1961年にフジテレビへ入社。配属は報道部で、記者としてキャリアをスタートしました。
当時から現場の熱気が好きだったそうで、鶴見事故やケネディ暗殺といった重大ニュースの取材にも関わっていたんです。
でもその後、労働組合を立ち上げたことで社内の保守派ににらまれ、報道から広報に“左遷”されるという時期もありました。
それでも腐らず努力を続けた結果、1968年には『3時のあなた』など人気番組の立ち上げに関わるなど、編成の現場で力を発揮し始めます。
1980年には42歳で編成局長に抜擢され、ここから彼の“本領発揮”が始まります。
「楽しくなければテレビじゃない」というキャッチフレーズもこの時代に誕生。
社内に明るく自由な空気を持ち込み、フジテレビのカラーを決定づけたと言っても過言じゃありません。
社長就任~フジテレビ黄金期の立役者
日枝久さんが社長に就任したのは1988年。
鹿内春雄さんの急逝後、後継として“社内生え抜き初”の社長に選ばれたのが日枝さんだったんです。
この時期のフジテレビは、視聴率や広告収入で他局に水をあけられていたんだけど、日枝さんの登場で流れが一変します。
彼が掲げたのがあの有名なキャッチコピー、「楽しくなければテレビじゃない」。
それに合わせて、番組の企画や制作を現場に大きく任せる方針を打ち出し、バラエティ・ドラマ・アニメで高視聴率連発!
1982年から1993年まで、フジテレビは視聴率三冠王の座を他局に譲りませんでした。
映画やイベント事業にも力を入れていて、たとえば『南極物語』や『子猫物語』、『夢工場’87』なども彼の時代の企画です。
“メディアミックス”の先駆けともいえる手法で、メディア業界全体に新風を吹き込んだんですよ。
その後は2001年に会長に就任、2008年にはホールディングス化にともなって「フジ・メディアHD」の会長も兼任。
まさに“フジの顔”として約40年近く、第一線を走り続けた存在なんです。
次は、彼の若い頃のキャラや意外な愛されエピソードを紹介しますよ!
若い頃はどんな人?“ガハハおじさん”の愛称と人柄
これまでは実績や経歴メインで紹介してきましたが、最後に日枝久さんの“人間味”にフォーカスしていきます!
社内での呼ばれ方や仲間からの評判、そして女子アナブームとの関わりなど、ちょっと身近に感じられるエピソードを集めてみました!
まずは、彼の“人柄”がにじみ出るエピソードから紹介しますね!
労働組合書記長としての行動力と社内エピソード
日枝久さん、実は若い頃からかなり“行動派”だったんです。
1966年、わずか入社5年ほどでフジテレビ労働組合を結成し、自ら書記長に就任。
当時の女性社員に課されていた「25歳定年制」などに立ち向かったそうで、「今じゃ考えられない」と語る声も多いとか。
当然、その行動は社内の一部からは煙たがられ、広報部などに“左遷”されたこともあったんですが…
それでも腐らずコツコツ仕事を続けたというエピソードは、多くの社員からリスペクトを集めた理由の一つです。
当時の愛称は「ガハハおじさん」。
トレードマークだった豪快な笑い方が印象的で、社員たちから親しまれていたみたい。
バラエティ番組で明石家さんまに水をかけられるなど、自ら笑いのネタになることもいとわなかったのが、彼らしいところです。
そんな彼が社内で信頼を勝ち取っていった過程が、後の出世にも繋がっていったんでしょうね。
次は、彼がどんなふうに“女子アナ文化”を作り上げたのか、その裏側を見ていきましょう!
女子アナブームを生んだ編成改革とは?
今では当たり前のように活躍している“女子アナ”たち。
でも実は、その土台を作ったのが日枝久さんなんです!
彼が1980年に編成局長になった頃、テレビの世界ではまだ“女性アナウンサー=ニュース読み”のイメージが強かったんですよね。
でも日枝さんは、「女子アナも番組の顔にすべき」と考え、バラエティや情報番組にもどんどん起用していきました。
その背景には、日枝さん自身が**「テレビは楽しくなきゃ意味がない」**という信念を持っていたから。
“視聴率至上主義”を掲げる一方で、番組作りに対しても柔軟で新しい感覚を持っていたんです。
結果的に、フジテレビは女子アナ人気が爆発的に高まった先駆けになり、アナウンサー自体がタレント化していく流れを生み出しました。
今でこそ当たり前のこの文化、実は日枝さんの改革がきっかけだったんですね。
彼の“現場に任せる”スタイルと、時代を先読みする目があったからこそ、今のバラエティ豊かなテレビ文化があるのかもしれません。
今回の記事ではこんなことを書きました。以下に要点をまとめます。
・日枝久さんは1937年生まれで、フジテレビを牽引したレジェンド
・早稲田大学卒業後、報道記者からスタートし編成局長・社長へ
・1980〜90年代に鹿内家との対立を経て“乗っ取り”と呼ばれる実権掌握
・女子アナブームの仕掛け人でもあり「楽しくなければテレビじゃない」が信条
・2025年、長年の影響力に対して辞任要求が出てついに退任
・受賞歴は日本・イギリス・台湾と国際的にも評価されている
いや〜、振り返ってみるとすごい人生ですよね。
フジテレビの成長と変革のど真ん中にいた日枝さんの姿は、まさに“昭和・平成・令和”をまたいだメディア界の大黒柱って感じでした!
ちょっと難しそうな内容でも、こうして順を追ってみるとストーリー性があっておもしろいですよね。
この記事を読んだあなたが、テレビ業界やリーダーの裏側にちょっとでも興味を持ってもらえたらうれしいです!