
元プロ野球選手の米田哲也容疑者が逮捕されたということで話題になっていますね。
兵庫県尼崎市のスーパーで缶チューハイを万引したとして、県警は25日、窃盗の疑いで元プロ野球選手の無職・米田哲也容疑者(87)を現行犯逮捕した。米田容疑者は午前10時半すぎ、兵庫県尼崎市のスーパーマーケットで缶チューハイ2本(販売価格303円)を盗んだ疑い。 米田容疑者は阪急、阪神、近鉄で投手として活躍。金田正一さん(故人)の通算400勝に次ぐ歴代2位の通算350勝を記録し、野球殿堂入りしている。引退後はコーチや解説者を務めフジテレビ系「プロ野球ニュース」にも出演。お茶の間でもおなじみだった。 現役時代はその驚異的スタミナから「ガソリンタンク」「人間機関車」「タフマン」などと呼ばれた。
Yahooニュースより

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気になったので米田容疑者について調べてみました。
米田哲也のプロフィールと基本情報
米田哲也さんは、日本プロ野球界を代表する名投手の一人です。通算350勝を挙げ、歴代2位の登板数を誇るなど、驚異的な記録を持つレジェンド投手として知られています。彼の生い立ちから、プロ入りまでの経歴を詳しく見ていきましょう。
生年月日・出身地・血液型などの基本情報
米田哲也さんの基本プロフィールは以下の通りです。
- 名前:米田 哲也(よねだ てつや)
- 生年月日:1938年3月3日
- 年齢:87歳(2025年時点)
- 出身地:鳥取県西伯郡大篠津村(現在の米子市)
- 血液型:AB型
- ポジション:投手
- 投打:右投右打
鳥取県出身の米田さんは、高校卒業後すぐにプロ入り。抜群のスタミナと強気の投球スタイルで、プロ野球界に名を馳せました。特に「ガソリンタンク」との異名を持ち、多くの試合で完投する驚異的なタフネスが特徴でした。
プロ野球選手になるまでの経歴
米田哲也さんは、幼少期から野球に親しみ、抜群の才能を発揮していました。地元の学校でプレーを続ける中で、その実力はすぐに周囲の注目を集めることになります。
彼は鳥取県の米子東高校へ進学。高校時代は投手として活躍し、力強い直球と安定した制球力でチームをけん引しました。当時から「プロでも十分に通用する」と評され、多くのスカウトの目に留まっていたそうです。
1956年、高校卒業後に**阪急ブレーブス(現在のオリックス・バファローズ)**へ入団。当時、18歳という若さでプロ入りした彼は、1年目から一軍で登板し、その潜在能力をいかんなく発揮しました。
米田哲也のプロ野球経歴!驚異の350勝を達成
プロ入り後の米田哲也さんは、そのタフネスぶりと安定した投球で数々の記録を打ち立てました。特に通算350勝という成績は、歴代2位の偉業として今も語り継がれています。ここでは、阪急ブレーブス時代から近鉄バファローズでの晩年まで、彼のプロ野球人生を振り返ります。
阪急ブレーブス時代の活躍と成績
1956年に阪急ブレーブスへ入団すると、1年目から先発として起用され、早くもプロの舞台で頭角を現しました。特に彼の特徴は、驚異的なスタミナと連投も苦にしないタフネス。そのプレースタイルから、「ガソリンタンク」の異名を持つようになりました。
彼の阪急時代の主な記録は以下の通りです。
- 通算勝利数:350勝(歴代2位)
- 登板数:949試合(歴代2位)
- シーズン最多登板:72試合(1962年)
- 最多勝利タイトル:3回(1958年、1962年、1966年)
- 最多奪三振タイトル:2回(1962年、1966年)
これらの成績からもわかるように、当時の米田さんはまさに「鉄腕」。先発完投はもちろん、中継ぎや抑えもこなすオールラウンダー投手として、阪急のエース的存在となりました。
近鉄バファローズ時代と引退後の活動
1977年、近鉄バファローズへ移籍。この頃には40歳を迎えており、若手主体のチームでベテランとしての役割を担っていました。成績としては全盛期ほどの活躍は見られなかったものの、その経験を生かし、若手投手陣の指導にも尽力しました。
翌1978年、惜しまれながらも現役を引退。引退後は、プロ野球解説者や評論家として活躍し、持ち前の知識と経験を武器に、野球界に貢献しました。
「ヨネボール」とは?彼の代名詞となった魔球
米田哲也さんといえば、代名詞ともいえる「ヨネボール」。これは彼独自の投球スタイルから生まれた、打者を翻弄する変化球です。では、「ヨネボール」とは一体どのような球だったのでしょうか?
ヨネボールの特徴
ヨネボールは、一般的にはシンカー系の変化球とされており、右打者の外角へ沈み込むような軌道を描くのが特徴です。球速は決して速くはないものの、ストレートと同じ腕の振りから繰り出されるため、打者にとっては非常に打ちづらいボールでした。
なぜ「ヨネボール」と呼ばれるようになったのか?
この名前の由来は、彼の名前「米田(ヨネダ)」から取られたもので、解説者やファンの間で次第に定着していったと言われています。当時の野球界では、独特な変化球を持つ投手は愛称をつけられることが多く、「ヨネボール」もその一例です。
ヨネボールの効果と強さ
- 打者は見極めが難しく、空振りを誘いやすい
- ストレートとのコンビネーションでより効果的
- 打者が芯を外され、ゴロを打たせることが多かった
この「ヨネボール」を武器に、米田哲也さんは数々の強打者を抑え、歴代2位の350勝という偉業を成し遂げました。
87歳という年齢からも、晩年をこのような形で迎えられるのが残念だという印象です。
ただただ残念・・・